松原という土地の立地条件と産業
松原市という際立った特徴や産業の無い町で事業を興すこと、継続することは如何なる業種であっても非常に困難なことだと思います。残念ながら現在の松原市には、そこで暮らしたい・事業を興したいと外部(市外)の人間に思わせる要素を見つけることは正直なところ難しいです。それでは、この街の特徴とは、松原市の産業とは一体何でしょうか。私なりの見解を述べてみたいと思います。
*松原市 – Wikipedia
実は松原市にも地場産業と呼ばれている物はあるにはあるのです(具体名は挙げません)。しかし本当の意味での松原市の最たる産業は「住環境」ではないでしょうか。大阪市に隣接し、阿倍野・天王寺地区に私鉄(近鉄南大阪線)の準急で1駅という立地から、大阪市のベッドタウンとしての位置付けとなることは宿命なのかもしれません。
*産業 – Wikipedia
*近鉄南大阪線 – Wikipedia
恐らくは歴代の市長を含む行政担当者や沿線の近畿日本鉄道もそのように松原市を位置付け、町の施策や開発に取り組み、発展を期待してきた部分は大きいと思われます。
現に大阪を含む大都市近郊ではそのようにして鉄道会社と沿線の自治体がタッグを組んで街を発展させ、更には沿線・自治体のブランドイメージを高めてきた例は少なくないと思います。大阪近郊では阪急今津線や阪急宝塚線などが良い例ではないでしょうか。
*阪急今津線 – Wikipedia
*阪急宝塚線 – Wikipedia
私の家系
私の父方の家系は広島県の出身で私の3代前の方(曽祖父)が大正時代に大阪で海鮮業を興したのですが、それなりの成功を収め築いた財をもって阪神地区各地の不動産を購入したそうです。そのうちの一つが現在の松原市の土地であり私の祖父や父へと受け継がれてきました。
私の曽祖父の人物像を知る術は最早無いのですが、広島から単身で大阪に出向き1代で財を為した経営手腕、そして昭和初期に起きた2つの大きな恐慌の直前に事業を畳んだ見事な引き際の良さ、この2点だけを見るに相当な嗅覚を持った”やり手”だったのではないかと思います。
*昭和金融恐慌 – Wikipedia
その曽祖父が獲得に選んだ不動産の一つが現在の松原市の土地であった背景には、大阪市への距離や当時開通した鉄道新線(*)などの要素を含めて、松原という土地の将来性を買った部分が大きいのだろうと思います。戦後の厳しい状況の中でほとんどの土地は手放すことになったようですが、現在のメゾン松原は正にその方の築いた財産の上に建っている訳です。
*大鉄(大阪鉄道):現在の近鉄南大阪線の前身
都市発展の機会
話の筋がプライベートな方向に逸れましたが、私の言いたいことは”松原市にも発展する機会が十分に与えられていた”ということです。それも小規模でもワンチャンスでもなく、大きな機会が何度もあった筈です。
しかし、松原市をはじめとして隣接する同じ近鉄沿線の藤井寺市や羽曳野市も、現在の街の状況を見るにその大きなチャンスをどれほど有効に活かしてきたのかは残念ながら疑問を感じざるを得ません。
近畿地方以外の方でも”近鉄”と”藤井寺”というキーワードから、この沿線がかつての藤井寺球場があった沿線であることがお分かりになると思います。またこの沿線は大阪芸術大学やPL学園といった有名校を有する沿線でもあり、意外と多くの著名人にも知られた場所でもあるのです。
*藤井寺球場 – Wikipedia
私の云う大きなチャンスとはそういうことです。大都市に隣接し大手私鉄沿線でありプロ野球の球場を有する。これほどの立地が全国にどれほど存在するでしょうか。高いブランドイメージを定着させるのにこれ以上の条件はなかなか揃わないと私は思います。
近鉄と沿線自治体が手を組むことで、高級住宅街を整備したり、公園・図書館・レクリエーション施設をはじめとする公共施設の充実を図ったり、あるいは企業や大学を積極的に誘致したりと、都市計画の専門家ならずとも将来有益な施策を考えることはできた筈です。そうすることで自ずと人口は増え税収も上がり、更なる町の発展を望むことも十分に可能であった筈です。
しかし残念ながらそうはならなかった。この20年間、数少ない松原市内の大学は他市に移転し大型商業施設の一つが撤退を決め、15万にも満たない市の人口は1万人以上減少しました(*)。さらに主観的なことを云わして貰えば、30年程前の私の子供の頃と比較しても駅前の賑わいは衰えたように思います。
*但し大阪府内は都心回帰の傾向が顕著で、2000年以降は大阪市の人口が増加傾向にあるのに対し周辺自治体は概ね人口が減少傾向にあります。
全国の大都市に隣接する町で衰退を目の当たりにしなければならない町など、どれほどあるというのでしょうか。その直接の原因として、大阪市のベッドタウンの立ち位置に甘んじ市の独自性を打ち立ててこなかった、おざなりな行政手腕を指摘せざるを得ません。
南大阪の他の自治体との比較
その様な衰退の状況は、同じ南大阪に位置し松原市とも隣接する堺市や、あるいは富田林市や河内長野市と比較した時により顕著に痛感することです。ここに挙げた3市が松原市と較べ何が違うのか、それを論説することは今の私には難しいので割愛しますが、ただ一点、”こうありたいという市の将来像を見据えた都市計画”において決定的な差があるように思います。
特に堺市の場合、その”都市計画”の水準の高さには驚くべきものがあります。私は過去に北九州・東海・関東の各地方を転々とする中、福岡市・名古屋市・東京都やその周辺自治体の姿を1住人の視点で見てきましたが、人口が数十万~100万人程の都市で堺市ほど都市計画に独自性をもつ自治体は恐らく珍しいのではないでしょうか。
*堺市 – Wikipedia
*富田林市 – Wikipedia
*河内長野市 – Wikipedia
今から15年程前、いわゆる”平成の大合併”が全国で敢行されはじめた頃に私は埼玉県南部に住んでいたのですが、近隣の大宮市と浦和市と与野市とが合併し現在のさいたま市が誕生しました。それに合わせ市中心部では大規模な再開発が行われ”さいたま新都心”という巨大ビル街(ほぼ同時期に再開発された東京都内の汐留地区に引けをとらないモノでした)が整備されました。
*日本の市町村の廃置分合 – Wikipedia
*さいたま市 – Wikipedia
*さいたま新都心 – Wikipedia
突如として人口100万の都市が誕生した当時の地元の熱気を私は肌で感じることが出来たのですが、それでも千葉県内や神奈川県内の大都市への対抗心からくる付け焼刃的な合併そして都市開発としての側面は否めませんでした。事実、当の大宮市民や浦和市民からの合併に対する様々な批判の声もマスコミを通じて耳にしたことを記憶しています。
堺市民の方が自らの住む町をどのように見ているのかはよく判りませんが隣の松原市民から堺市を見た時、羨望の感情がこみ上げてきます。市民が健康で豊かな生活を送る上で必要な施設がおよそ数えきれないほど整備され、自然や公園などの緑地の環境面でも配慮がなされ、鉄道や道路などの交通網もこれ以上なく整備されています。
さらに目先の開発で無く、町の各所に将来の”拠点の種”が植えられています。それは恐らく30年・50年・100年先を見据えた上での開発計画なのでしょう。その点においては大阪市すらも堺市の後塵を拝していると思います。
松原市の役割と責任
長々と話してきましたが、私の住む町は残念ながら堺市ではなく松原市です。松原市の行政に携わる方達には是非とも他の自治体の取り組みも参考にし、付け焼刃ではない将来を見据えた発展のための都市計画を模索して頂きたいと願っています。松原市単独で難しいのであれば、隣町の藤井寺市や羽曳野市との合併を考えることも一つの手段だと思います。
*藤井寺市 – Wikipedia
*羽曳野市 – Wikipedia
そもそも大阪府内の行政単位は細分化されすぎです。それは他県の自治体数と比較すれば一目瞭然です(*)。恐らくは自治体の最小単位を明治初期や戦後に人口で割り振った結果なのかもしれませんが、私は行政の単位は人口では無くむしろ面積で決定すべきだと考えます。
*平成の大合併による都道府県別市町村数推移 – Wikipedia
全国平均で見た場合に大阪府内の市町村の絶対数が目立って多いという訳ではないのですが、単位面積当たりの自治体数は福岡県や埼玉県などと並んでやはり多いと云わざるを得ません。
また平成の大合併でほぼ全ての県が市町村数を大幅に減らしたのに対し、東京都と大阪府のみ大きな変化が見られないという事実にも、何か意味深なものを感じるのは私だけでしょうか。
もちろん良い意味でも悪い意味でも歴史の古い地域ですから様々なしがらみもあると思います。ですが、現状のままでは弱小自治体はいつまでも弱小のままです。絶好の機会と思われた”平成の大合併”すらその機を失した訳ですが、いずれ行政に携わる方達には大鉈を振るう義務が課せられる時がくると、私は期待の気持ちを込めて見ています。
また、南北で格差の大きい大阪府内に於いてその格差を広げた責任についても松原市は負うところが大きいと私は考えています。南大阪の人や物の大きな流れには2通りあり、ひとつが堺市や泉佐野へと抜ける流れ(和泉方面)と、もう一つが松原市や富田林市や河内長野市へと抜ける流れ(南河内方面)です。
大阪府の地図を見れば明らかですが大阪市を起点に見た時、その南河内方面の入口に位置するのが松原市です。すなわち、松原市の発展が南河内全体の発展への道筋にも繋がる可能性が直接的にも間接的にもあると考えられます。
ただ、このことは阿倍野・東住吉・平野といった大阪市南部の都市開発の遅れも関係していることであり、一概に松原市だけに責任を押し付けるのは酷かもしれません。
*大阪市 – Wikipedia
いずれにしても、南北の格差を是正するのは至難の業だと思いますし、その様な観点を持つ人間が大阪府内にどれだけいるかも怪しいところですが、現状のままではこの南河内地域は周辺自治体の発展から取り残されたまま推移することは間違いないように思います。
今この時点で、将来の発展に繋がる楔となる様なせめて”道筋”だけでも示さなければ、あとあと手遅れになってしまう様に思えてなりません。
環境整備という手法
”松原市という土地で事業を興し継続することが如何に困難であるのか”、それがメゾン松原という賃貸マンションを経営してきた中で私が一番に痛切に感じることです。
事業を継続するために何が必要か、それを考え私なりの結論として出した答えの一つが”松原市に無いモノを可能な限り自分の手で何とかしよう”ということです。その具体策として実行に移した計画が「環境の整備」です。そう思い立った背景には、メゾン松原の住環境としての付加価値に繋がるはずだという直観的な確信がありました。
幸いにしてメゾン松原の敷地は建坪に対しかなり贅沢に設けられています。その建坪以外の敷地部分を利用して”緑地環境”を充実させることにしました。その具体的な内容については本ブログや本ウェブサイトで写真・文章を交えて紹介しておりますので、詳しくはそちらをご覧下さい。
*メゾン松原 外部環境 – メゾン松原 見本帖
*メゾン松原 エクステリア – メゾン松原blog
ですが、メゾン松原で実施している環境整備の仕事、本来それは行政の仕事だと私は思います。もちろん個人レベル・民間レベルでも緑地環境を整備する心構えは大切です。しかし限度あるいは限界というものがあります。大きな費用を要する事業としての環境整備は、やはり行政の力に頼らざるを得ません。
如何に住みよい住環境を整備するか、その一環としての緑地環境の整備を進めること、残念ながらその点に於いて松原市は他の自治体と比較して質的にも量的にも、また住人の意識レベルに於いても相当に遅れています。
このことは既存の並木の剪定の仕方ひとつを見ても判ります。植木の剪定は当然のことながら鋏(ハサミ)を使って行うものです。人件費の問題から時間を節約するために植木用のバリカンを使うこともあるかもしれません。しかし手間を惜しんでのことか、一足飛びにチェーンソーを使うことは論外です。緑地環境を整備する上での”園芸”は”林業”ではないのです。
今、松原市内では無残に切り刻まれた並木の”なれの果て”の姿をあちこちで目にします。とてもじゃないですが植木や剪定の知識を持った人間のすることとは思えない仕業です。
一般道の並木の剪定である以上、公共入札の手続きを経て松原市の担当職員が選んだ”専門の業者”によるものである筈ですが、あの無残で悲しい光景を松原市の職員は確認しているのでしょうか。あるいは適切な指示や助言をやり取りしているのでしょうか。疑問を通り越して憤りすら感じます。
*競争入札 – Wikipedia
*随意契約 – Wikipedia
メゾン松原での緑地環境の整備は、もちろん第1には住人の方達に優れた住環境で暮らして頂きたいという経営者側の想いがある訳ですが、第2にはメゾン松原の周辺住宅の方達や通行人の方達にとっての憩いの場を提供したいという思惑もあるのです。
”庭”というものは、本来そういうものではないでしょうか。”庭”とは土地を持ちそこに住む者のためだけのものでは無く、道行く人々の目も楽しませるモノです。古来から”借景”という言葉が示す通り、庭を含む緑地環境は地域に住む全ての住民どうしがお互いに工夫する中で共有すべき財産だと私は考えます。
*借景 – Wikipedia
その意味で、土地を持つ者には等しくある責任が課せられていると思います。第1に建物を建てる際は出来る限り周囲の環境を壊すことのないこと(出来れば建物が建つことで周囲に良い影響を及ぼし得ること)、第2に最低限の植樹をし地域の景観に貢献すること。この2点をより多くの人が意識し実行することで自ずと町並みは美しいものに変わっていくと私は考えています(理想論と云われるかもしれませんが)。
その点に於いて、メゾン松原は1つの賃貸マンションでありながらも、建物母屋や室内空間(インテリア)のみならず建物周辺のエクステリア環境も視野に収め、室内・屋外空間を合わせたトータルとしての住環境を提供するべく建物竣工後も継続して整備を続けており、その際には周辺住宅の方達の住環境にも気を配りながら計画を進める努力をしています。
緑地環境・都市設計・ランドスケープ・そして住環境
本コラムの前半部分で私は過去に地方を転々としたと書きましたが、そこで気付いたことの一つは他の大都市圏である福岡市・名古屋市・東京都では既に何十年も前から”緑地環境”の価値に気付き、積極的に都市開発の一部として組み入れてきているということです。
何れの都市も都心部に点在する既存の緑地公園を有効に都市設計に取入れ、また大規模な再開発の際には積極的に敷地内の緑化を進めています。その背景には、優れた緑地環境をデザインし整備することが建物や敷地(空間)の”付加価値”を高める効果があることをよく理解しているからです。
では、その”付加価値”とは何か。ミクロな視点で見た場合に、直接的には優れたランドスケープ(都市風景)の創造により建物や空間の集客力が高まるといった経済的な効果が挙げられるでしょう。また、その建物や空間を使用する立場の人間からすれば、それは居心地の良い優れた空間に身を投じた時に感ずる”安らぎ”が挙げられると思います。
さらにマクロな視点で見た場合、つまり都市全体を俯瞰した場合のことですが、それは都市そのものの評価に繋がるものだと私は思います。
ある都市を旅した時にその町が居心地が良いか否か、漠然と人が感じるその背景の1つ要素として、緑地環境を中心に据えたランドスケープをその都市が如何に積極的に展開し、あるいは緻密に構成しているかが非常に重要ではないかと私は考えています。その点に於いて、残念ながら大阪の町では未だ緑地環境の付加価値に気付いていない住人が大勢を占めているように思います。
再び行政の話題に戻りますが、”健康で豊かな生活を送るための優れた住環境を整備し提供すること”、私はこれこそが行政に課せられる最大の義務であり仕事であると考えます。またその様な住環境を切望し求めることは、市民の当然の権利ではないでしょうか。(住環境を整備する上で行政にしかできないことと、市民レベルで行うべきものの見極めは必要ですが)
権利と義務の本来の意味が立場によって都合よく解釈されてしまう昨今ですが、こと住環境に関しては市民はもっと貪欲になるべきだと思うし、顕在化していない市民の要望を吸い上げて実現していくことが、行政と市民にとっての共同作業であり責任ではないでしょうか。
事業継続のための模索と希望的観測
松原市という一体どこに向かおうとしているのかよく判らない街で事業を継続するには相当の覚悟と自助努力が必要な訳ですが、行政の力に頼ることができないのであれば我々の様な個人事業者が街を変えていく気概を持たなければ、次へのステップは何も始まらないのかもしれません。
自らの生活を守りながら次の一手を考えることは至難の業ですが、次に何をすればより豊かな暮らしを実現する為に効果が上がるのか、今よりも面白いことができるのか、それを模索し続けています。模索し実践し、また模索し、、の連続と云ってもよいでしょう。
逆転の発想になるかと思いますが、大阪市や堺市のような大きな都市では個人や民間組織の影は薄いものとなるのに対し、松原市のような小規模で目立った特徴の乏しい街でこそ個人や小企業にとってのビジネスチャンスが生まれると捉えることもできます。
ただし、くどいようですが相当の覚悟、大げさに言えば人生を賭けるほどの覚悟が必要になると思います。そうするだけの価値がこの松原市にあるのか否か、新規に事業を興そうとする方はよくよく見極める必要があると思います。
またその価値があると第3者が期待できるような”具体的な何か”を提示することこそが、行政をはじめ松原市の今後の発展の道筋を作る立場にある人間や組織の本当の役割なのかもしれません。
私個人の主観では、現在は何の取り柄もない松原市かもしれないですが、市民であることに誇りの持てる街へと変わるポテンシャルは未だ十分に秘めていると考えています。
贔屓目が過ぎると云われるかもしれませんが、私は私なりに己の身の丈に合った範囲内に限定されるものの、より暮らしやすい街づくりに向けて自らの事業を通して松原市の発展に貢献したいと考えています。そして、いつまで事業を存続できるのかと常に不安と闘いながらも試行錯誤の中で実践を続けています。
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