書を捨て町へ出よう
いや書はだいぶ前に捨てたか
(原文は読んでなく作者のニュアンスは知らない)
”町”は街でなくともよい
”南の島”でも”異国の秘境”でも構わない
もちろん雑多な街角にも身を投じよう
撮影者として培い養ってきた目を存分に発揮したい
…表現者として
狭い世界に囚われていてはダメだ
書を捨て町へ出よう
いや書はだいぶ前に捨てたか
(原文は読んでなく作者のニュアンスは知らない)
”町”は街でなくともよい
”南の島”でも”異国の秘境”でも構わない
もちろん雑多な街角にも身を投じよう
撮影者として培い養ってきた目を存分に発揮したい
…表現者として
狭い世界に囚われていてはダメだ
ラジオとの出会い
俗にいう芸能界という存在にあまり関心のなかった僕にとってテレビのバラエティ番組は子供の頃から苦手だった。多人数でガヤガヤと騒いでいるイメージに馴染めなかったのだと思う。
(ただし小学生の頃、萩本欽一さんは好きで毎週家族と番組を見ていたけども)
対してラジオというメディアは昔から好きで、小学5年の時に担任の先生がFM放送で流れる音楽の素晴らしさを語るのに影響され親に買って貰ったダブルラジカセ(懐かしい)に始まり、その年代年代でラジオを聴いたことは自分の中の記憶の節目となって残っている。
最も長く聴いている局はAM局のラジオ関西(神戸)だろう。特に中学生の頃は僕もアニメにどっぷり浸かっている頃で、アニメ・特撮の話題をメインにした”青春ラジメニア”は中学3年の頃から大阪を離れるまでの大学受験一浪の年まで毎週聴いていた。
※ちなみにこの番組は2016年現在も続いていて、30歳を超えてから再び聴き始め現在に至る。
その後は、各都市に移り住む中でCROSS FM(北九州)ZIP FM(名古屋)AFN(横田?)など、特に意識して聴いたわけでは無かったが、何故か当時の記憶と共に頭の中に残り続けている。
何年かの歳月が経過して大阪に戻ると、しばらくはテレビやラジオとは無縁の生活が続いたが、(何をするにも人より遅い僕が)ようやく車を運転し始めた時にラジオと再会することとなる。
そう云えば僕はラジオが好きだったなと。
久々に聴くラジオはやはり面白かった。しかも車の中という密室で聴くラジオはまた一味違うというか、いやむしろラジオを聴くための特別室と言っても過言ではないと思う。以前にも増してラジオを聴く機会が増え、改めてラジオというメディアの魅力にハマる自分を実感している(だからこそ今この長文を書いている訳だ)。
帰阪後、最初にハマった番組はABCラジオ(大阪)の「全力投球!!妹尾和夫です」だ。男女2人のパーソナリティの掛け合いと番組内の各コーナーでの様々な”仕掛け”が面白かった。後に私の住む街を通る私鉄沿線の各駅構内のアナウンスの声が妹尾さんであることを知った時には驚いた。時代劇の悪役俳優出身でラジオのパーソナリティをする位なので流石に良い声をしている。
ただこの番組は、妹尾さんがちょっと政治的な発言をし始めたなーと思った矢先に番組が終了となり現在は聴くことが出来ない。
FM COCOLO
次にハマったのが現在もメインに聴き続けているFM COCOLO(大阪)だ。この局はまだ歴史は浅いものの”over 45”を標榜していて、つまり放送全体が45歳以上のリスナーが心地よく聴ける様な番組編成となっている。私はまだその年齢には達していないが、少し先輩方の世界に身を寄せる感じがするためか、聴いていて非常に心地よい。
FM COCOLOでのお気に入りの番組は多数に上る。ざっと書き出すと、、
AFTERNOON DELIGHT(メメ)
MARK’E MUSIC MODE(マーキー)
HIRO T’S AMUSIC MORNING(ヒロ 寺平)
PACIFIC OASIS(小谷真美子&カマサミ・コング)
CURIOUS FRIDAY(キヨミ)
君と焚き火とAOR(伊勢正三&池田なみ子)
KANと要のWabi-Sabiナイト(KAN & 根本要)
オーディナリー・ナイト(馬場俊英)
THE BEAT GOES ON SUNDAY(ばんばひろふみ)
THE MAJESTIC SUNDAY(ちわきまゆみ)
NIGHT AND DAY(南佳孝)
スラスラと番組名とパーソナリティの名前が出てくることに自分でも驚くが、一つのラジオ局をここまで聴き込むとは思ってもみなかった。
列記した番組のDJやパーソナリティは見事に僕よりも少し上の世代で、自分にとって心地よく聞こえる理由もそこら辺にあるのだと思う。子供の頃から、どちらかと云えば人の後を付いていくタイプの私にとってはアニキやアネキが喋っているという風で落ち着くのだろう。
知り合いにFM COCOLOのことを話すと”君の年代ならFM802の方だろう”と言われたこともあるが、自分にはこのFM COCOLOこそがツボだと思っている。
上の番組は皆それぞれに特色があってお気に入りなのだが、特にと云われれば、やはり”MARK’E MUSIC MODE”と”KANと要のWabi-Sabiナイト”だろうか。
マーキーさんの喋りは知っている人には全く説明不要だが、一言でいうと”ミスターハイテンション”だろう。とにかく面白い。KANさんと根本要さんの掛け合いは、一言でいうと”雑談”だ。とにかく自然な喋りで寛げる。
要さんの喋りは、これも知っている人には説明不要だがスターダストレビューのライブでも笑いが絶えないMCが素晴らしい。YouTubeでも動画が上がっているので一聴一見をおススメする。
僕個人のこと
話変わって僕の個人的な話をひとつ。これまでの人生で人との接触を半ば避けてきた感のある僕に、再び人恋しいという感情を呼び起こしてくれたのが実はラジオという存在だ。
本コラム冒頭のテレビの話にここで繋がるのだが、基本として不特定多数の人間が参加するテレビのバラエティ番組では一人ひとりの個性や人となりが見えにくいのに対し、基本的にラジオでは一人か二人のパーソナリティがモノローグまたは会話形式で番組を進行する。
またゲストとも直接対峙する形なので、一人ひとりの”顔”がよく”見える”。これは矛盾をはらんだ表現にも聞こえるが事実そうなのだ。パーソナリティとゲストとの間に日頃からの付き合いに基づく信頼関係が無ければ、あの和やかな空気は作れないだろうとも思う。
FM COCOLO以外に、現在もう一つ聴いている局がある。前述のラジオ関西のことだが”青春ラジメニア”はアニメ自体をほとんど見なくなった今も、二人のパーソナリティ(岩崎和夫と南かおり)の掛け合いとゲストとのトークに触れるために毎週欠かさず聴いている。
子供の頃は漠然と聴いていた二人の会話も、大人になりこの歳になって聴くと、随分と円熟した掛け合いだということが理解できるようになった、、と思っている。
ラジメニアの放送の直前に流れていることで聴き始めた”ハイサイ!KOBE”(ひづきようこ)、現在は”ひづきようこの今宵の宴”という番組名に変わっているが、メインのパーソナリティを務める”ひづきようこ”さんの喋りが一聴して癒し系ながら、所々に毒があるところが面白い。
この方は本業は歌手で、自身で曲作りもこなすシンガーソングライターだが、つい最近ライブに行く機会もあったりして目下の所は個人的に一番惚れ込んでいる存在だ。
個人的な話、、から随分長くなったが、そんなラジオの中で生き生きとしている風に見える沢山の人達の姿を垣間聴くにつけ、急速に人との接触が恋しくなったという訳だ。
今は可能な限りあちこちに出かけて行って、これまで躊躇して出来なかったことに首を突っ込んでみようと考えている。自分とは違う人生を歩んでいる全ての方達に子供のように根掘り葉掘り質問したいと思っている。
この歳になり少し遅すぎた感も否めないが、稼業も一つの区切りがつこうとしている今、次の新たなステップを模索する意味でも色々と試してみたいことがある。それは結果が伴ってからいずれ報告するとして、、これから出会う方達には、僕の知らないこと判らないことを優しくご指南頂きたい。宜しくお願いします。
Share on Facebook現在、メゾン松原は満室です。
初春の段階で3部屋の空室が同時期に出た時には絶望的な状況でしたが、関係各位の皆様のお力とご入居頂いたお客様のお陰をもちまして何とか経営危機のトンネルを抜けることが出来ました。
本当に有難うございました。今後も変わらぬお付き合いとご助力を宜しくお願い致します。
メゾン松原 北東部 2014 秋(eos 5d2 ef24-105mm)
経営危機の打開策
3部屋の入居が決定するまで(本年1月~7月)の7カ月間は振り返ってみれば短い期間のように思えますが、賃貸住宅の経営というものは基本姿勢として空室が出た場合は”入居希望者を待つ”という受身の姿勢を取らざるを得ず、その間の精神状態は心身への大変な負担となります。
もちろん受身と云っても何もしない訳ではなく”営業とPRの強化”や”建物室内外への設備投資”など、新規入居者を迎え入れる為の様々な準備を万全に整えます。その準備をどの程度どの様な形で行うか、恐らくその部分こそが経営者としての手腕を発揮するべきところだと思います。
そして、そこでの設備投資は新規入居者を迎え入れる為だけに終わることなく、既存の入居者の方達にとっても”より充実した生活空間の享受”という形で還元されます。
たとえば、屋外の新規設備については目に見える形で即時に利便性が高まりますし、室内で実践した新たな設備やインテリアはやがて”部分的なリフォーム”という形でサービスの一環として反映されていきます。
また、当然のことながらそのような設備投資やインテリアあるいはエクステリアの刷新は継続して行うことで、メゾン松原全体としての付加価値が高まり”大きな資産”という形で蓄積されていきます。
南側駐輪場 2014 秋(eos5d2 ef24-105mm)
必要は発明の母
一見、マイナス面しか目に映らない空室という状況も、その状況を打開するために何らかの大きな舵を切る良いきっかけになります。このことは恐らく経営上の危機を乗り切るという意味に於いて、賃貸住宅の経営という枠を離れて全ての事業に通じることだと思います。
もちろん、その間の資金繰りは壮絶を極めることもありますが、その点については割り切るしかないと思います。考えれば考えるだけ精神と肉体にのしかかるだけでしょうから。
安穏とした状況では思いつかない事が、切羽詰まった状況に追い込まれることで急速に前進する。正に”必要は発明の母”と云えるのではないでしょうか。
*余談になりますが、本ウェブサイトも今回の事態に備えリニューアルしました。過去通算3回目の大規模アップデートとなり、今回初めてブログ形式のページも導入しました。現時点での私の持てる力全てを投入しメゾン松原の特徴と魅力を伝える工夫を施したつもりです。
長尾街道沿い 2009(eos kiss x ef-s18-55mm)
教訓として
以前の記事でも書いたことですがメゾン松原の入居状態は過去4年間にわたり好調を維持しました。しかし、その4年間も決して常に順調という訳では勿論なく経営上の危険信号が灯し掛けたことも何度かありました。その時々で過去の(苦い)経験を教訓として活かし、何とか空室期間を最小限に抑える為に様々な手を尽くしての結果です。
本年に関しても、既に最低2部屋は空室が出ると判った昨年秋の段階から(空室期間を出すまいと)行動を起こし万全を尽くしたつもりでしたが、幾つかの手違いや見通しの甘さも重なった結果、3つの空室を全て埋めるのに半年以上の時間を要したことになります。
この状況と結果をどのように解釈するか。単に運が悪かった(偶然が重なった)と見るべきか。現在の景気動向を考えた場合に普通あるいはそれ以上の成果と捉えるべきか。そこには、現在の日本の(少なくとも南大阪の)不動産市場を取り巻く大きな問題を考慮する必要があります。
その問題に対する解答を得るか否かが今後の不動産ビジネスの中での生死を分けることに、改めてそして否応なく気付かされました。詳細をここで書くことは適いませんが、自らの新たな教訓として今後に繋げていきます。
Share on Facebook松原という土地の立地条件と産業
松原市という際立った特徴や産業の無い町で事業を興すこと、継続することは如何なる業種であっても非常に困難なことだと思います。残念ながら現在の松原市には、そこで暮らしたい・事業を興したいと外部(市外)の人間に思わせる要素を見つけることは正直なところ難しいです。それでは、この街の特徴とは、松原市の産業とは一体何でしょうか。私なりの見解を述べてみたいと思います。
*松原市 – Wikipedia
実は松原市にも地場産業と呼ばれている物はあるにはあるのです(具体名は挙げません)。しかし本当の意味での松原市の最たる産業は「住環境」ではないでしょうか。大阪市に隣接し、阿倍野・天王寺地区に私鉄(近鉄南大阪線)の準急で1駅という立地から、大阪市のベッドタウンとしての位置付けとなることは宿命なのかもしれません。
*産業 – Wikipedia
*近鉄南大阪線 – Wikipedia
恐らくは歴代の市長を含む行政担当者や沿線の近畿日本鉄道もそのように松原市を位置付け、町の施策や開発に取り組み、発展を期待してきた部分は大きいと思われます。
現に大阪を含む大都市近郊ではそのようにして鉄道会社と沿線の自治体がタッグを組んで街を発展させ、更には沿線・自治体のブランドイメージを高めてきた例は少なくないと思います。大阪近郊では阪急今津線や阪急宝塚線などが良い例ではないでしょうか。
*阪急今津線 – Wikipedia
*阪急宝塚線 – Wikipedia
私の家系
私の父方の家系は広島県の出身で私の3代前の方(曽祖父)が大正時代に大阪で海鮮業を興したのですが、それなりの成功を収め築いた財をもって阪神地区各地の不動産を購入したそうです。そのうちの一つが現在の松原市の土地であり私の祖父や父へと受け継がれてきました。
私の曽祖父の人物像を知る術は最早無いのですが、広島から単身で大阪に出向き1代で財を為した経営手腕、そして昭和初期に起きた2つの大きな恐慌の直前に事業を畳んだ見事な引き際の良さ、この2点だけを見るに相当な嗅覚を持った”やり手”だったのではないかと思います。
*昭和金融恐慌 – Wikipedia
その曽祖父が獲得に選んだ不動産の一つが現在の松原市の土地であった背景には、大阪市への距離や当時開通した鉄道新線(*)などの要素を含めて、松原という土地の将来性を買った部分が大きいのだろうと思います。戦後の厳しい状況の中でほとんどの土地は手放すことになったようですが、現在のメゾン松原は正にその方の築いた財産の上に建っている訳です。
*大鉄(大阪鉄道):現在の近鉄南大阪線の前身
都市発展の機会
話の筋がプライベートな方向に逸れましたが、私の言いたいことは”松原市にも発展する機会が十分に与えられていた”ということです。それも小規模でもワンチャンスでもなく、大きな機会が何度もあった筈です。
しかし、松原市をはじめとして隣接する同じ近鉄沿線の藤井寺市や羽曳野市も、現在の街の状況を見るにその大きなチャンスをどれほど有効に活かしてきたのかは残念ながら疑問を感じざるを得ません。
近畿地方以外の方でも”近鉄”と”藤井寺”というキーワードから、この沿線がかつての藤井寺球場があった沿線であることがお分かりになると思います。またこの沿線は大阪芸術大学やPL学園といった有名校を有する沿線でもあり、意外と多くの著名人にも知られた場所でもあるのです。
*藤井寺球場 – Wikipedia
私の云う大きなチャンスとはそういうことです。大都市に隣接し大手私鉄沿線でありプロ野球の球場を有する。これほどの立地が全国にどれほど存在するでしょうか。高いブランドイメージを定着させるのにこれ以上の条件はなかなか揃わないと私は思います。
近鉄と沿線自治体が手を組むことで、高級住宅街を整備したり、公園・図書館・レクリエーション施設をはじめとする公共施設の充実を図ったり、あるいは企業や大学を積極的に誘致したりと、都市計画の専門家ならずとも将来有益な施策を考えることはできた筈です。そうすることで自ずと人口は増え税収も上がり、更なる町の発展を望むことも十分に可能であった筈です。
しかし残念ながらそうはならなかった。この20年間、数少ない松原市内の大学は他市に移転し大型商業施設の一つが撤退を決め、15万にも満たない市の人口は1万人以上減少しました(*)。さらに主観的なことを云わして貰えば、30年程前の私の子供の頃と比較しても駅前の賑わいは衰えたように思います。
*但し大阪府内は都心回帰の傾向が顕著で、2000年以降は大阪市の人口が増加傾向にあるのに対し周辺自治体は概ね人口が減少傾向にあります。
全国の大都市に隣接する町で衰退を目の当たりにしなければならない町など、どれほどあるというのでしょうか。その直接の原因として、大阪市のベッドタウンの立ち位置に甘んじ市の独自性を打ち立ててこなかった、おざなりな行政手腕を指摘せざるを得ません。
南大阪の他の自治体との比較
その様な衰退の状況は、同じ南大阪に位置し松原市とも隣接する堺市や、あるいは富田林市や河内長野市と比較した時により顕著に痛感することです。ここに挙げた3市が松原市と較べ何が違うのか、それを論説することは今の私には難しいので割愛しますが、ただ一点、”こうありたいという市の将来像を見据えた都市計画”において決定的な差があるように思います。
特に堺市の場合、その”都市計画”の水準の高さには驚くべきものがあります。私は過去に北九州・東海・関東の各地方を転々とする中、福岡市・名古屋市・東京都やその周辺自治体の姿を1住人の視点で見てきましたが、人口が数十万~100万人程の都市で堺市ほど都市計画に独自性をもつ自治体は恐らく珍しいのではないでしょうか。
*堺市 – Wikipedia
*富田林市 – Wikipedia
*河内長野市 – Wikipedia
今から15年程前、いわゆる”平成の大合併”が全国で敢行されはじめた頃に私は埼玉県南部に住んでいたのですが、近隣の大宮市と浦和市と与野市とが合併し現在のさいたま市が誕生しました。それに合わせ市中心部では大規模な再開発が行われ”さいたま新都心”という巨大ビル街(ほぼ同時期に再開発された東京都内の汐留地区に引けをとらないモノでした)が整備されました。
*日本の市町村の廃置分合 – Wikipedia
*さいたま市 – Wikipedia
*さいたま新都心 – Wikipedia
突如として人口100万の都市が誕生した当時の地元の熱気を私は肌で感じることが出来たのですが、それでも千葉県内や神奈川県内の大都市への対抗心からくる付け焼刃的な合併そして都市開発としての側面は否めませんでした。事実、当の大宮市民や浦和市民からの合併に対する様々な批判の声もマスコミを通じて耳にしたことを記憶しています。
堺市民の方が自らの住む町をどのように見ているのかはよく判りませんが隣の松原市民から堺市を見た時、羨望の感情がこみ上げてきます。市民が健康で豊かな生活を送る上で必要な施設がおよそ数えきれないほど整備され、自然や公園などの緑地の環境面でも配慮がなされ、鉄道や道路などの交通網もこれ以上なく整備されています。
さらに目先の開発で無く、町の各所に将来の”拠点の種”が植えられています。それは恐らく30年・50年・100年先を見据えた上での開発計画なのでしょう。その点においては大阪市すらも堺市の後塵を拝していると思います。
松原市の役割と責任
長々と話してきましたが、私の住む町は残念ながら堺市ではなく松原市です。松原市の行政に携わる方達には是非とも他の自治体の取り組みも参考にし、付け焼刃ではない将来を見据えた発展のための都市計画を模索して頂きたいと願っています。松原市単独で難しいのであれば、隣町の藤井寺市や羽曳野市との合併を考えることも一つの手段だと思います。
*藤井寺市 – Wikipedia
*羽曳野市 – Wikipedia
そもそも大阪府内の行政単位は細分化されすぎです。それは他県の自治体数と比較すれば一目瞭然です(*)。恐らくは自治体の最小単位を明治初期や戦後に人口で割り振った結果なのかもしれませんが、私は行政の単位は人口では無くむしろ面積で決定すべきだと考えます。
*平成の大合併による都道府県別市町村数推移 – Wikipedia
全国平均で見た場合に大阪府内の市町村の絶対数が目立って多いという訳ではないのですが、単位面積当たりの自治体数は福岡県や埼玉県などと並んでやはり多いと云わざるを得ません。
また平成の大合併でほぼ全ての県が市町村数を大幅に減らしたのに対し、東京都と大阪府のみ大きな変化が見られないという事実にも、何か意味深なものを感じるのは私だけでしょうか。
もちろん良い意味でも悪い意味でも歴史の古い地域ですから様々なしがらみもあると思います。ですが、現状のままでは弱小自治体はいつまでも弱小のままです。絶好の機会と思われた”平成の大合併”すらその機を失した訳ですが、いずれ行政に携わる方達には大鉈を振るう義務が課せられる時がくると、私は期待の気持ちを込めて見ています。
また、南北で格差の大きい大阪府内に於いてその格差を広げた責任についても松原市は負うところが大きいと私は考えています。南大阪の人や物の大きな流れには2通りあり、ひとつが堺市や泉佐野へと抜ける流れ(和泉方面)と、もう一つが松原市や富田林市や河内長野市へと抜ける流れ(南河内方面)です。
大阪府の地図を見れば明らかですが大阪市を起点に見た時、その南河内方面の入口に位置するのが松原市です。すなわち、松原市の発展が南河内全体の発展への道筋にも繋がる可能性が直接的にも間接的にもあると考えられます。
ただ、このことは阿倍野・東住吉・平野といった大阪市南部の都市開発の遅れも関係していることであり、一概に松原市だけに責任を押し付けるのは酷かもしれません。
*大阪市 – Wikipedia
いずれにしても、南北の格差を是正するのは至難の業だと思いますし、その様な観点を持つ人間が大阪府内にどれだけいるかも怪しいところですが、現状のままではこの南河内地域は周辺自治体の発展から取り残されたまま推移することは間違いないように思います。
今この時点で、将来の発展に繋がる楔となる様なせめて”道筋”だけでも示さなければ、あとあと手遅れになってしまう様に思えてなりません。
環境整備という手法
”松原市という土地で事業を興し継続することが如何に困難であるのか”、それがメゾン松原という賃貸マンションを経営してきた中で私が一番に痛切に感じることです。
事業を継続するために何が必要か、それを考え私なりの結論として出した答えの一つが”松原市に無いモノを可能な限り自分の手で何とかしよう”ということです。その具体策として実行に移した計画が「環境の整備」です。そう思い立った背景には、メゾン松原の住環境としての付加価値に繋がるはずだという直観的な確信がありました。
幸いにしてメゾン松原の敷地は建坪に対しかなり贅沢に設けられています。その建坪以外の敷地部分を利用して”緑地環境”を充実させることにしました。その具体的な内容については本ブログや本ウェブサイトで写真・文章を交えて紹介しておりますので、詳しくはそちらをご覧下さい。
*メゾン松原 外部環境 – メゾン松原 見本帖
*メゾン松原 エクステリア – メゾン松原blog
ですが、メゾン松原で実施している環境整備の仕事、本来それは行政の仕事だと私は思います。もちろん個人レベル・民間レベルでも緑地環境を整備する心構えは大切です。しかし限度あるいは限界というものがあります。大きな費用を要する事業としての環境整備は、やはり行政の力に頼らざるを得ません。
如何に住みよい住環境を整備するか、その一環としての緑地環境の整備を進めること、残念ながらその点に於いて松原市は他の自治体と比較して質的にも量的にも、また住人の意識レベルに於いても相当に遅れています。
このことは既存の並木の剪定の仕方ひとつを見ても判ります。植木の剪定は当然のことながら鋏(ハサミ)を使って行うものです。人件費の問題から時間を節約するために植木用のバリカンを使うこともあるかもしれません。しかし手間を惜しんでのことか、一足飛びにチェーンソーを使うことは論外です。緑地環境を整備する上での”園芸”は”林業”ではないのです。
今、松原市内では無残に切り刻まれた並木の”なれの果て”の姿をあちこちで目にします。とてもじゃないですが植木や剪定の知識を持った人間のすることとは思えない仕業です。
一般道の並木の剪定である以上、公共入札の手続きを経て松原市の担当職員が選んだ”専門の業者”によるものである筈ですが、あの無残で悲しい光景を松原市の職員は確認しているのでしょうか。あるいは適切な指示や助言をやり取りしているのでしょうか。疑問を通り越して憤りすら感じます。
*競争入札 – Wikipedia
*随意契約 – Wikipedia
メゾン松原での緑地環境の整備は、もちろん第1には住人の方達に優れた住環境で暮らして頂きたいという経営者側の想いがある訳ですが、第2にはメゾン松原の周辺住宅の方達や通行人の方達にとっての憩いの場を提供したいという思惑もあるのです。
”庭”というものは、本来そういうものではないでしょうか。”庭”とは土地を持ちそこに住む者のためだけのものでは無く、道行く人々の目も楽しませるモノです。古来から”借景”という言葉が示す通り、庭を含む緑地環境は地域に住む全ての住民どうしがお互いに工夫する中で共有すべき財産だと私は考えます。
*借景 – Wikipedia
その意味で、土地を持つ者には等しくある責任が課せられていると思います。第1に建物を建てる際は出来る限り周囲の環境を壊すことのないこと(出来れば建物が建つことで周囲に良い影響を及ぼし得ること)、第2に最低限の植樹をし地域の景観に貢献すること。この2点をより多くの人が意識し実行することで自ずと町並みは美しいものに変わっていくと私は考えています(理想論と云われるかもしれませんが)。
その点に於いて、メゾン松原は1つの賃貸マンションでありながらも、建物母屋や室内空間(インテリア)のみならず建物周辺のエクステリア環境も視野に収め、室内・屋外空間を合わせたトータルとしての住環境を提供するべく建物竣工後も継続して整備を続けており、その際には周辺住宅の方達の住環境にも気を配りながら計画を進める努力をしています。
緑地環境・都市設計・ランドスケープ・そして住環境
本コラムの前半部分で私は過去に地方を転々としたと書きましたが、そこで気付いたことの一つは他の大都市圏である福岡市・名古屋市・東京都では既に何十年も前から”緑地環境”の価値に気付き、積極的に都市開発の一部として組み入れてきているということです。
何れの都市も都心部に点在する既存の緑地公園を有効に都市設計に取入れ、また大規模な再開発の際には積極的に敷地内の緑化を進めています。その背景には、優れた緑地環境をデザインし整備することが建物や敷地(空間)の”付加価値”を高める効果があることをよく理解しているからです。
では、その”付加価値”とは何か。ミクロな視点で見た場合に、直接的には優れたランドスケープ(都市風景)の創造により建物や空間の集客力が高まるといった経済的な効果が挙げられるでしょう。また、その建物や空間を使用する立場の人間からすれば、それは居心地の良い優れた空間に身を投じた時に感ずる”安らぎ”が挙げられると思います。
さらにマクロな視点で見た場合、つまり都市全体を俯瞰した場合のことですが、それは都市そのものの評価に繋がるものだと私は思います。
ある都市を旅した時にその町が居心地が良いか否か、漠然と人が感じるその背景の1つ要素として、緑地環境を中心に据えたランドスケープをその都市が如何に積極的に展開し、あるいは緻密に構成しているかが非常に重要ではないかと私は考えています。その点に於いて、残念ながら大阪の町では未だ緑地環境の付加価値に気付いていない住人が大勢を占めているように思います。
再び行政の話題に戻りますが、”健康で豊かな生活を送るための優れた住環境を整備し提供すること”、私はこれこそが行政に課せられる最大の義務であり仕事であると考えます。またその様な住環境を切望し求めることは、市民の当然の権利ではないでしょうか。(住環境を整備する上で行政にしかできないことと、市民レベルで行うべきものの見極めは必要ですが)
権利と義務の本来の意味が立場によって都合よく解釈されてしまう昨今ですが、こと住環境に関しては市民はもっと貪欲になるべきだと思うし、顕在化していない市民の要望を吸い上げて実現していくことが、行政と市民にとっての共同作業であり責任ではないでしょうか。
事業継続のための模索と希望的観測
松原市という一体どこに向かおうとしているのかよく判らない街で事業を継続するには相当の覚悟と自助努力が必要な訳ですが、行政の力に頼ることができないのであれば我々の様な個人事業者が街を変えていく気概を持たなければ、次へのステップは何も始まらないのかもしれません。
自らの生活を守りながら次の一手を考えることは至難の業ですが、次に何をすればより豊かな暮らしを実現する為に効果が上がるのか、今よりも面白いことができるのか、それを模索し続けています。模索し実践し、また模索し、、の連続と云ってもよいでしょう。
逆転の発想になるかと思いますが、大阪市や堺市のような大きな都市では個人や民間組織の影は薄いものとなるのに対し、松原市のような小規模で目立った特徴の乏しい街でこそ個人や小企業にとってのビジネスチャンスが生まれると捉えることもできます。
ただし、くどいようですが相当の覚悟、大げさに言えば人生を賭けるほどの覚悟が必要になると思います。そうするだけの価値がこの松原市にあるのか否か、新規に事業を興そうとする方はよくよく見極める必要があると思います。
またその価値があると第3者が期待できるような”具体的な何か”を提示することこそが、行政をはじめ松原市の今後の発展の道筋を作る立場にある人間や組織の本当の役割なのかもしれません。
私個人の主観では、現在は何の取り柄もない松原市かもしれないですが、市民であることに誇りの持てる街へと変わるポテンシャルは未だ十分に秘めていると考えています。
贔屓目が過ぎると云われるかもしれませんが、私は私なりに己の身の丈に合った範囲内に限定されるものの、より暮らしやすい街づくりに向けて自らの事業を通して松原市の発展に貢献したいと考えています。そして、いつまで事業を存続できるのかと常に不安と闘いながらも試行錯誤の中で実践を続けています。
Share on Facebookご無沙汰しています。
公私ともにバタバタとした状況の中、暫く筆をとる(というか、考えを纏める)時間を割くことが出来ませんでした。約ひと月ぶりの投稿となります。
メゾン松原の経営状況について
2015年2月現在、メゾン松原では2室の空室があります。全19戸しかない賃貸マンションにとってはそれだけで空室率10%(年間)を超える厳しい数値です。
メゾン松原は2011年1月~2014年12月の間、平均して年間で1戸の新規入居と退去を繰り返し、4年連続で入居率98%以上を達成しました。この数値は、いかなる不動産会社とも専属契約を結ばない賃貸マンションとしては、恐らく輝かしい成績だろうと思います。
しかし、それは決して偶然によるものではありません。
①我々経営者陣の弛まぬ経営努力による部分と、②メゾン松原の経営や建物の維持に関してお力を借りている全ての方々の協力、③そして何よりメゾン松原を住いとして選びお使い頂いている住人の皆様のお蔭に依るものです。
②③は経営者側から見た場合他力によるものですから説明は割愛させて頂きますが、①に関しては2011年以降の4年に限らず、およそメゾン松原の竣工当初からより優れた住環境を実現すべく様々な改革を敢行してきました。
その内容については本ウェブサイトの本編ページ(見本帖)やギャラリーページ(写真集)に記載しておりますのでご覧下さい。どこまでも手前味噌な物言いで申し訳ありませんが、近年高い入居率を達成した陰には決して偶然ではない経営者自らの努力と工夫があるのです。
しかし現在、2室の空室があります。世間一般の賃貸住宅経営の水準からみれば大したことのない状況と思われるかもしれませんが、我々の様な零細の個人経営者にとっては大変な痛手です。
たとえば、①の内容の一つとしてメゾン松原は住人へのサービスが厚いことが挙げられますが、実施には当然費用が掛かります。限られた予算の中で身銭を切る思いで費用を捻出している中、元手となる収入が大幅に低減することはサービスの低下に直結します。
また、この松原市という悲しいかな魅力の乏しい土地で新規に顧客を獲得する(=新規入居者を獲得する)ことが如何に困難なことかは個人事業者、とくに小売業やサービス業の方なら等しく痛感することだと思います。
メゾン松原 北側 2014 春(eos5d2 ef17-40mm)
不動産業界に願うこと
まず思うのは、賃貸物件における不動産市場は「不完全市場」であるということです。私は経済学は門外漢ですので文献からの受け売りですが「不完全市場」とは端的にいうと一部の大企業が市場を独占または寡占の状況に追い込み、価格を事実上左右することです。
また不動産業で扱う商品は建物や土地であり、多くの個人にとって住居としての不動産を複数もつ(または借りる)ことはあまり無いでしょうから、他の業界以上に特定地域での(つまり松原市内での)パイは厳格に決定します。
そういう状況ですから、上記のようにどこの不動産業者とも専属契約を結ばない我々の様な個人経営者は、新規顧客獲得の手段が不動産仲介業者に依存せざるを得ない状況下に置かれている(※)という意味において、常に生活基盤を失うリスクにさらされています。
※この様な状況の第1の弊害として、(ネット上や店頭で公開される)物件情報が画一的な内容に制限されることで物件の持つ本来の魅力が全く紹介されず、本来見込まれるはずの需要(新居を探している側)と供給(住空間を提供する側)の邂逅が阻害されることが挙げられます。
事実、メゾン松原に入居されている方の中には、市内の不動産屋さんで住まいを紹介して貰ったが希望に見合う物件が見つからず、その後に自分の足で歩いて回った結果、メゾン松原を探し当て入居されたという方が複数いらっしゃいます。
メゾン松原はどことも専属契約を結んでいないと書きましたが、それは「専属」の話であって、どこの不動産会社とも取引はさせて頂いています。
実際、経営者自ら(私のことですが)が営業に回り自作の紙資料(メゾン松原を端的に紹介したリーフレット)を松原市内・周辺の不動産業者の各お店にお渡ししています。また、口頭や書面での説明が難しい内容については、本ウェブサイトを是非見て頂きたいということも事あるごとにお伝えしています。
上記のようなことが1度ならず2度3度と重なると流石に色々と邪推したくもなりますが、不動産会社には不動産会社の都合というものもあるのでしょう。詳しくはここでは書きません。
ですが、①不動産事業を興した個人経営者が多大な経営上ののリスクを背負いながら建物を維持していること、②また自らの事業に対し誠心誠意向き合い奮闘している個人事業者も存在していること、この2点に関してだけは他ならぬ不動産会社の方達には理解して頂きたいと思うのです。
自らの立ち位置は己で築き己で守るものであることは承知しているつもりですが、個人でできる経営努力にも限界があります。幅広く支店を持つ企業にとってみれば、成績が芳しくない、あるいは経営が危ういとみれば特定地域からの撤退という選択もあるのでしょうが、我々個人経営者にとってその選択は、余程のことが無い限りあり得ません。
現況のままでは互いのチキンレース(価格競争)の中で共倒れになる個人経営者が続出するのではないでしょうか。切迫した会計を強いられる中、土俵際で踏ん張っているというのが現在の状況です。
不動産を商売道具とする我々個人事業者にできることは、自らの責任の範囲内でできる最大限の工夫を施すことのみです。すなわち”快適で安全な住環境を提供すること”この一点に集約されます。顧客の斡旋(新規入居者の募集)という不動産事業の云わばスタートラインに於いては無力な存在であり、不動産会社の皆様のお力にすがるより他に選択肢はありません。
確かに”ウェブサイトの公開”や”リーフレットの配布”などの形でポートフォリオを作製し物件の特徴をアピールする手段はあるものの、事実上の無名の存在である賃貸物件にとって不特定多数の顧客を獲得する手段には残念ながら現在のところ成り得ません。
偉そうな物言いになって大変申し訳なく思いますが、不動産会社の皆様にはどうか自らの責任をご理解頂き、松原市全体の不動産業界を広い視野を持って守り育てて頂きたいと願っています。
その”責任”をどのように解釈するのか。単に経済活動の延長と捉えるか、あるいは互いに共存し地域の発展に寄与する重要な役割の担い手と考えるか、それは皆様個人の判断に委ねるしかありません。
本当に偉そうで手前味噌な表現で申し訳ありませんが、私はメゾン松原という場所から、(残念ながらマイナーなイメージしかない)松原市の発展に貢献したいと考えています。現在のところ未だ微力ではありますが、実践の中で模索を続けています。
メゾン松原 西側 2014 春(eos5d2 ef17-40mm)
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